2014/03
日本女子大学校出身の科学者たち君川 治


[女性科学者・技術者シリーズ17]

日本女子大学を訪ねる
 東京大塚の日本女子大学正門を入ると左に成瀬記念館があり、右に成瀬記念講堂がある。講堂内の正面に成瀬仁蔵の胸像があり、三綱領である信念徹底・自発創生・共同奉仕の額が掲げられている。多くの学生が学んだ香雪化学館は新しい建物に建て替えられているが名前は「香雪館」として残っている。この他に七諸N館、八諸N館、百年館があり、一番古い樟渓館の木造校舎がある。
 さらに校舎の奥に創設者成瀬仁蔵の住んだ家が保存されており、見せていただいた。竹垣に囲まれた木造2階建ての住宅で、居間・応接間・書斎・書庫などがあり、生活洋式は洋風である。病をおして最後の講演をした椅子が残されている。


日本女子大学校出身の科学者たち ¢ア
 大橋 広(1882-1972)は岡山県出身で、日本女子大学校英文科を卒業し、教育学部博物科に入学して1909年に卒業した。生物学研究室の助手になり1922年からシカゴ大学大学院で植物学を専攻し、緑藻の研究でPh.Dの学位を取得した。帰国後は母校教授となり、家庭植物学を担当した。その後、家政学部長、第5代学長を歴任した。

 高橋憲子(1910-1981)は石川県の出身、家政学部を1930年に卒業して理学科の助手となり、1948年に助教授、1958年に教授となった。専門は植物生理学で、米シカゴ大学、ハーバード大学に留学して植物ホルモンの研究に従事し、1962年に「冬芽の休眠に関する研究」で名古屋大学より理学博士の学位を授与された。母校の学生部長、評議員、理事を務め、定年退職後は名誉教授になった。私財を寄付して高橋奨学金を設けている。

 奥田富子(1896-1985)は1917年に教育学部家政科を卒業し、物理学教室の助手となり、1946年に教授となった。テレビを通じて家庭電化の基礎知識浸透に努力し、家庭電化製品の普及に努めた。発明協会の審査委員を務め勲三等瑞宝章を受章している。

家政学部で自然科学系の教育
 日本女子大大学校の創設者成瀬仁蔵は女子の全人教育を目指し、家政学部、国文学部、英文学部を設けた。家政学部の中では自然科学系の教育を目指し、博物学、生理学、衛生学、物理化学、園芸学などの科目を設け、その後数学・物理・化学・植物学・動物学・鉱物地質学へと拡大して行った。
 成瀬仁蔵の教育理念は設立当初から成瀬を助けた第2代校長麻生正蔵に受け継がれた。その後数か月間、渋沢栄一が第3代校長を務めるが、第4代井上 秀、第5代大橋 広、第6代上代タノ、第8代道 喜美代と、卒業生が校長になっている。大橋と道は理系出身の校長である。
 教授陣は化学大御所の東大教授長井長義を始め、動物学の渡瀬庄三郎、植物学の服部他之助、物理学の後藤牧太など、29名中22名が他の大学の兼務教授であった。
 長井長義はドイツ留学の経験を活かして自ら最新鋭の化学教室「香雪化学館」を設計し、実験器具なども整備された。このような環境で育った丹下ウメが母校教授となり、その後薬学博士の鈴木ひでる、農学博士道 喜美代、理学博士高橋憲子、薬学博士辻 きよ等が母校の教授となって活躍した。


薬学博士 鈴木ひでる
 鈴木ひでる(1888〜1944)は愛知県の塩問屋の裕福な家庭に生まれた。父は自分が機会を逸したのでと、8人の子供達には自由に勉学の機会を与えた。鈴木ひでるの姉と妹は女子美術学校で学び、ひでると3人の妹は日本女子大学校で学んだ。2人の弟たちは高等商船学校と東大工学部で学んだ。
 鈴木ひでるは1906年に豊橋高等女学校を卒業し、日本女子大学校の教育学部に入学、同年に設置された教育学部の第一部を専攻した。第一部は数学・物理・化学専攻、第二部は植物・動物・鉱物地質・生理衛生専攻である。指導教授は化学と薬学の長井長義博士で、その薫陶を受けて1910年卒業した後は母校に残り、長井の実験助手として研究活動を継続した。1912年に丹下ウメと同様に文部省中等教員化学検定試験に合格し、付属高等学校の教諭に採用された。
 1918年に薬剤師試験に合格した鈴木ひでるは、長井の推薦で東京帝国大学医学部薬学科の専攻生となり、近藤平三郎教授の指導を受けた。近藤教授の指導は同じ研究室の男子生徒が気の毒に思うほど厳しかったようだが、母校の助手と教諭を兼務する専攻生として5年間頑張った。
 1929年に母校教授となり、レモンヂモゥら得られる揮発油の研究を始めた。レモンヂモゥらペリレンを抽出し、その国「を決定する長い道のりであったが「レモンヂリ発油成分ペリレンの国「」で1937年に東京大学医学部から薬学博士の学位を授与された。我が国初の女性薬学博士であった。
 鈴木ひでるは母校で研究と教育を続ける傍ら趣味の植物採集を楽しみ、牧野富太郎博士の植物観察会にも出かけた。
 第二次大戦の戦火が東京にも及ぶようになり、大塚からの移転先を求めて西生田校地を決めたが、その年の暮れに体調を崩して56歳の若さで亡くなった。


農学博士 道 喜美代
 道 喜美代(1909〜1985) は石川県の出身。1927年に日本女子大学校高等学部理科に入学し1930年に卒業すると、本科理学科家政学部食物専攻に入学して1933年に卒業した。前述の通り家政学部で自然科学系の科目を履修して卒業すると家政学士となり、理学士とはならない。その為、教育学部を設けたり理学科家政学部を設けたりと、日本女子大の理学系講座には紆余曲折があった。
 卒業後、母校助手に採用されたが、その後、道の研究遍歴が始まる。1934年から35年は慶応大学医学部食養研究所、1935年から43年は理化学研究所鈴木梅太郎研究室、1943年から44年は北里研究所、1945年から48年は東京大学農学部農芸化学教室と移り、1950年に母校の新制日本女子大学に戻って教授となった。
 道の研究分野は生物化学、栄養化学で、丹下ウメや鈴木梅太郎など一流の研究者の指導を受け、ビタミンB群、特にビタミンB6の結晶単離に成功し、しいたけのコレステロール低下作用物質エリタデニンの単離にも成功して、東京大学から農学博士の学位を授与された。
 道 喜美代は学校運営にも力を発揮し、家政学部長を3期務め、1973年から1981年まで学長と理事長を歴任した。学外においても文部省の審議会委員、厚生省の調査会委員のほか、学会の評議員や会長を務めたり、米国のロックフェラー財団に設備援助交渉をして母校に大学院設置をするなど、教壇に立つだけでなく大学内外で幅広く活動をしている。


平和活動 辻 キヨ
 辻 キヨ(1912〜1996)は自然豊かな岩手県で育った。12人兄弟の末っ子で、兄や姉が勉学している都会に憧れて仙台第一高等女学校に入学した。仙台では東大を卒業し東北大学医学部で細菌学を研究していた長兄宅に住み、高等女学校卒業後は姉の推薦する日本女子大学校家政学部に入学した。東京では慶応大学で学ぶ2人の兄と姉・姪などと一緒に生活した。
 日本女子大学校での指導教授は丹下ウメや鈴木ひでるなど、母校を卒業した教授であった。卒業研究は「米飯の電気的炊飯の研究」で、米の糊化温度を見つけ、電気炊飯器の原理にヒントを与えたといわれている。1934年に卒業して、母校家政学部の無機化学高木誠司講師と有機化学緒方章講師の助手を務めた。夜は5年制の高等女学校化学教師を務め、さらに法政大学や二松学舎大学の講座を受講している。
 1946年に助教授となり、分析試薬のアゾ色素の研究を始め、「アゾ色素系分析試薬の研究」で京都大学より薬学博士の学位を授与された。1958年に教授となり分析化学、生活化学を担当し、家政学部長や学務部長を歴任した。
 1975年に中国科学院の招聘で、日本婦人科学者日中友好団の団長として訪中し、北京大学などの教育機関や自然科学系の研究所を訪問して中国の女性科学者たちと交流を図った。1968年からは婦人国際平和連盟の委員として活動をはじめ、1971年から日本支部会長を務め、デンマークで開催された国際会議に出席した。1977年には東京での総会を会長として主催した。
 辻 キヨは教育活動と社会貢献活動の両方の分野で活躍し、1981年に退職して名誉教授となった。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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